【書評118】西洋の哲学・東洋の思想

小阪国継著

41ECW0YJAyL__SL500_AA240_.jpg


連日報道される麻生内閣に関するニュースや
相変わらず茶番劇みたいな日本の国会議員たちのやり取りに、
いい加減げんなりすることはないだろうか。


一方、オバマ大統領の就任前後の演説と民衆の一体感に、
「日本のリーダーもあんなだったらなぁ」と思う人も少なからずいるだろう。


私がよくこのブログで取り上げている「起業家精神」という面でも、
既存の概念を打ち消し、新しい価値を創造することを賞賛する西洋的な思想と、
伝統的なものを粛々と守り続けることを尊いとする東洋的な思想が、
起業率の違いを生んでいる、などという説を聞いたりもする。


どちらが良い悪いということではきっとないのだろうけど、
こういう国民性の違いってどこからくるんだろうといつも思う。


資本主義自体西洋から否応なしにもたらされたもので、
自然は人間をも包括するという東洋思想に対し、
人間を絶対視し過ぎるあまり、環境よりも産業発展を最優先としたのは
西洋的思想の負の恩恵かもしれない。
そこには単純には語れない様々な背景がある。



でもやっぱり、政治や企業活動におけるリーダーであれば、
時には現状を激しく打ち破り、人々に熱いメッセージを投げかけ、
力強く実行するスキルを、日本人はもうちょっと磨いてもいいのではないかしら・・?


●西洋の原理が「有」すなわち形のある、実体的で、
 恒常不変な存在であるとすれば、
 東洋的な原理は「無」すなわち形のない、非実体的で、
 変転極まりない働きである。
 
 それだから、西洋的な有はどこまでも自己を肯定し、
 どこまでも自己を主張しようとする。
 これに対して、東洋的な無はつねに自己を否定することによって
 自分自身をあらわそうとする。

●(西洋の思想家によると、)人間は互いに自己保存と自己満足を求めて、
 不断に争い合うのである。
 このような「万人の万人に対する争い」の状態が「自然状態」における
 人間の赤裸々な姿だる、そこには絶え間ない恐怖と、
 暴力による死の危険がある。(中略)
 このような悲惨な状態において、死の恐怖と平和や安楽への願望は、
 人々に共通の権力に従おうという気持ちを起こさせる。

●(東洋の思想家によると、)自己と他者、個体と世界は分別されず、
 双方は相互に関係し、相互に協和し合うものとして考えられている。
 西洋近代の主観主義的で人間中心主義的なものの見方、
 あるいには二次元的・対立的な図式でもって物を見る見方の
 対極に位置している。

●(東洋思想では、)どこまでも自己を否定し、
 自己というものを消失していく方向において、
 物や世界との同一化が考えられているのである。

●西洋においては、自然が開発されるべきであると考えられたのに対して、
 東洋では人間が陶冶されるべきであると考えられた。
 前者においては、自然が人間にしたがうべきだと考えられたのに対して、
 後者においては、反対に人間が自然にしたがうべきだと考えられている。


で、結局冒頭の疑問の答えはよくわからなかったのだけれど(笑)、
模倣ではない日本人らしいリーダーシップの在りようも、
きっとある気がする。


●道の働きは無為自然であって、作為的なものでも人為的なものでもない。
 またそれだからこそ為さないものは何一つないのであって、
 世の支配者たちがこれを守れば、人民はおのずからこれに感化されて、
 私情や私欲をおこすものもなくなり、
 天下はおのずからにして治まるというのである。
  
●通常、われわれは自己の外に環境があり、
 自己は環境の外にあると考えている。
 しかし、本当は自己が環境である、環境が自己なのである。
 自己を環境や他社から隔てるこうした障壁が取り除かれれば、
 自己は無限に自己自身を拡大していくことができ、
 あらゆるものの内に自己を見るようになる。
 こうして自己は無限に自己自身を実現していくことができるだろう。


Comment

Name
Mail
URL
Text